AEFでも、「アドベンチャー教育をどうやって教科教育に?」ということに悩んでいた方がたくさんいました。
今日、教科ではないですが、アクティビティをいれこんで道徳を行ってみました。
「対立がちからに」を参考にしています。
t「今日は50/50(フィフティ・フィフティ)をやります。教室を真ん中半分で分けます。自分が当てはまる方に動いてね。ちょうど半分を目指しまーす!じゃあいくよ?」
c「ごはん派の人はこっち、パン派の人こっち。さぁ、どうぞ!」
こんなかんじで分かれるゲームを、ぼくが出したお題で少々。
t「うーん、うまくきれいに分かれないなぁ。みんなの中で、お題を出してみたい人いる?」
ということで、今度は子どもがお題を。
ねこが好きだとか犬が好きだとか。
ブタが好きだとか、子ブタが好きだとか。
(あとちょっと忘れました)
その後、もう一度お題を僕が出すことに。
次第に質問を
「好き嫌い」
から
「するしない」
「できるできない」
「違う違わない」
に変えていきました。
もちろん、子ども達は楽しんでいました。
※ただし、かなり踏み込んだ内容もあるので、すべて正直に答える必要はなくて、ある側に動くことで嫌な気持ちになるのであれば反対側に動いてもいい、ということを約束しました。これはとても大事。
さて、黒板の最後の質問までやったあと。
t「ところでみんな、差別って知っている?」
c「知ってるよ!」
t「どういうこと?言える人いる?」
c「なんか、『こっちの人はいい』とか『こっちの人はダメ』とか、そういうの」
t「うん、そうだね。要するに、『分けられることによって、誰かが不快に思うこと』
だよね。」
c「うんうん」
t「じゃあさ、今やったこのゲームの中で、差別になってしまう質問ってあった?」
このあたりから次第に静かになりました。
t「目の色が茶色いとか黒いとかは、差別だと思う。だって、どうしようもないじゃん。人によって違うし。」
t「うん、そうだよね。もう最初から決まっているもんね。言われたら不快?」
c「不快!やだ!」
t「そっか。ほかには?」
こんな感じでやっていくと、子ども達は自然と「どれも考え方によっては差別になりうる」という結論に至りました。
一番印象的だったのは、
c「教会に行く・行かないの質問をしたときに、『はぁ?行かないっしょふつー』とか、『なんでいくの』とか、そんなことを言っている人がいたけど、そういうことはいけないと思う。そういうことは、差別になる言葉だと思う」
という意見を述べた子。
この子のこの発言で、議論は一気に深まりました。
t「今○○さんやみんなが話してくれたように、ちょっとした一言が、こんな風に人を分けて、不快に思わせてしまうことってない?」
c「ある」「うん」
t「先生もあるんだ。『あー、すごく今の言葉、良くなかったな』とか『どうしてあんな風に言ってしまったんだろう』とか、先生になった今でもよくあるんだ。とても難しいよね。だけど、これはとても大切なことで、先生も毎日いろんなことから学んでいます。」
だいたいこんな感じでした。
ちなみに、僕はこの授業を通して、「差別とは何か」を教えたいということではありません。お間違いなく。
アクティビティで楽しんで夢中になったからこそ、教会の一件のような発言が自然と出てしまったのかな。
アクティビティで楽しんで夢中になったからこそ、後で「分けられることで不快になることがある」という視点を与えられたときに、自分たちのやっていたことが心に残ったのかな?と、彼らの顔を見て思いました。
アクティビティを入れるって、とても効果的ですよね。