もっさんのブログ

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横浜シュタイナー教員養成 1月の学び

今回もとっても刺激的な3日間でした。

シュタイナー教育を学ぶことで得られた新たな知見・経験・感覚をここに記します。

 

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僕は一度、本の執筆に携わったことがあります。その本では、「自立した市民を育てる」ことが社会科の大きな目的とし、そのためにどのような社会科の授業を行うとよいかを提案していました。

世界中を見て回った知人が、「もっとも成熟した市民のいる国はオランダだった」と述べていました。彼のレポートを読むと、僕が当時受けた印象は、「物事をよくしたいと思ったら、誰かがすぐに声を上げ、小さなコミュニティができ、改善のためにアクションをする国民性」でした。オランダは、同性婚を認めたことも、世界初。自分たちが正しいと思うこと、自分たちで行動することで形にしていくことができる国民なのだと思いました。

そんな背景を参考にしながら日本を見ていると、周りの目を気にして自分の意見が言えなかったり、トラブルがあると相手に言わずに陰で何かを言っていたり、文句は言うけど根底では「国がなんとかしてくれ」と思って行動しなかったり、選挙に行かない人が多かったり…新型コロナ騒動も、国民性が大変よく表れている出来事になったと思います。

僕自身の経験や、以前より考えていたことに加え、彼のレポートから、僕の教育におけるミッションステートメントは「今より一歩幸せな自分、家族、社会をつくるために自分から行動できる人を育てること」となっていました。社会科を学んでも、結局自分たちの生活をよりよくしようと行動できない(選挙に行かない、文句だけ言って行動しない、文句すら言わず思考停止など)では、社会科を学んだ意味がないと思っていました。社会の仕組みを知ることは世の中をよくすることにつながるし、歴史を学ぶことは今の生き方を見直すことにもなります。「学んでおしまい」ではなく、学び手の「自分を見つめて次に生かす」「行動化」そんなことまで含めた社会科を目指していました。

 シュタイナー教育は「自由への教育」です。その本質についてはまだ勉強中ですが、自ら自由(幸福)を得るために自分が行動するとこは当たり前のように大事なことだと思います。シュタイナー教育では、いわゆる公立学校で言うところの社会科の授業がどう行われているのにとても興味がありました。

 

【教育における一般人間学 を読んで】

Allgemeine Menschenkunde als Grundlage der Pädagogik(教育の基礎となる一般人間学)では、私たちが(おそらく自由の獲得できる)人間として成長するために、「意志」を育てることの重要性が述べられています。ここでいう「意志」は、「ほとんど無意識的に私たちの中の存在し、私たちの思考や行動を方向付けるもの」です。

おそらく、僕が社会科教育で目指していた、先ほど述べたことは、この「意志の力」に近いものだと思います。「選挙に行く」というのは一つの行為であって、その根底に流れるものが意志なのだと思います。

しかし、「意志を育てる」と聞くと一朝一夕ではないことは、ほとんどの方が納得することだと思います。シュタイナーは『意志形成に働きかける場合には、知的要素の形成(知識の獲得)に働きかけるのとは全く異なった方法を用いなければならない』と述べています。つまり、意志を育てることはいわゆる「教える」とは違うアプローチが必要、ということです。シュタイナーはこの点について、教育では「反復的行為」と「芸術的要素」が、意志に働きかけることにつながると述べています。

【反復的行為】

『意志衝動を正しく育ててゆくには、皆さんは子どもに何かを、今日も明日も明後日も行わせなければならないのです。正しいやり方は、お説教をしたり規則を与えたりすることではなく、皆さんが、これこそ子どもの中に正しいものに対しての感情(感情の育成は意志の育成の土台)を呼び覚ますものだと確信なさるものへ、子どもの目を向け、それを、子どもに反復して行わせることであります。…』

意志を育てるには、繰り返しが必要です。これは教える、という行為よりも、日々行われている習慣、慣習、宗教、文化的要素の中にある繰り返しも含まれているようです。いやむしろ、そのほうが意志に働きかけるといってよいと思います。シュタイナーは『いわゆる知識的教育では、何かを一回教え込むということに大きな価値が置かれていて、その事象を覚え理解することだけが求められている。でも、一度教え込まれてそのまま覚えられるものは、感情や意志に働きを及ぼすことはない』と述べています。「一度教えたのに…」という大人の言葉を聞くことがありますが、それこそ感情や意志には及ぼしていない、ということで、一度では当然の帰結のように思いました。

そしてこの繰り返しは、ただの強制強要では成り立ちません。この繰り返しは、『権威ある人物(子どもたちの尊敬する対象である大人)』に基づいて行われるからこそ成り立ちます(だから、先生は子どもたちに尊敬される存在でいてほしい)。ここがとてもとても重要だと思います。シュタイナー教育の中で行われているお祈りや、現代日本公立小学校が目指している方向とは逆の「一斉学習」とも見えるような、みんなで同じ時間を共有し大切にし合う文化が、きっとこれにあたるのだと思います。

 

【芸術的要素】

『では、なぜ芸術的な要素が、特に著しく意志形成に働きかけるのでしょうか?なぜならば、それは第一に、練習という作業によって反復を必要とするからであり、第二に、芸術によって身につくものは、その人間にそのつど喜びを与えてくれるからです。』

シュタイナー教育の中で行われているプログラムは、美しく心の中に染みわたっていく感じがします。これが芸術的要素であり、感情に働きかけるのであり、意志を育てていくのであるとわかってきました。

音楽の授業を例に挙げてみます。楽器の音も、音の扱い方もすばらしく美しく、僕の心に大きな影響を与えてきました。今回の講座の歌も、伴奏なんてなくてもなんて美しい歌になるんだろうと感動させられ、これも僕の心に大きな影響を与えています。ペンタトニック音階もそうですし、今回の教会施法(グレゴリオ聖歌)も、その音階だけで美しく心に響かせるものがありました。「昔は、音楽は現代のように鑑賞するものではなく、神様とつながるもののように別の意味で存在するものだった」とおっしゃっていましたが、講座の中でわたしたちが奏でた音は、まさに光が降りてくるような不思議な感覚を与えてくれました。また、美しい音を奏でられることに、自分の自己肯定感も増しているのを感じました。うまく言葉にできませんが、この音の力は僕の中に、世界に対して尊敬の気持ちを生み出させてくれています。

「世界にはこんなに素晴らしいものがあって、もっともっと素晴らしいものがあるんだよ!」「こんな素晴らしい世界と、こんなことができるわたしたち人間をもっと大事にしようよ!」「人と人とが力を合わせることって、素晴らしいこと!」

ということを、まさに感情本性に働きかけることで、意志衝動を育むことにつながっているように感じます。つまり、この体験・経験が僕の根底に影響を及ぼしている、ということです。『身に付けられたものはその都度喜びをもたらす』はまさにその通りですし、『芸術体験が意志形成に働きかける』とは、まさにこういうことなのではないでしょうか。

 

【自分が考えていた社会科を再考】

社会科、焦っていたのかなと考えるようになりました。目指しているところは変わらないけれど、例えば以前の講座でシュタイナーが言っていた「年齢を考慮すると、まだ子どもたちに判断をゆだねないほうがよいこと」についていえば、僕は、子どもたちはまだ社会を何とかしようと思わなくてよいのかなと考えるようになりました。それよりも今は、自分や家族、身の回りのことを知り、そこに興味や関心があり、そうやって世界がどうできているのかを丁寧に学んでいくことで十分なのかなと思うようになりました。

ただ、知識を詰め込むのは全く持ってナンセンスなので、勝負をするところは、学び方の「質」だなと感じています。講座の●●先生のように、社会科が好きで、学ぶことのすばらしさもわかっていることが、授業の核心だと思います。有機的なつながりを見出す、体験や経験から理解する、子どもたちの発達に合わせた概念で学ぶ…これらが「質」に関わってくると思いました。

先ほど述べた「行動化」の点については・・・例えば手仕事などで自己肯定感は育まれています。こういった別の文脈の中で思慮深さや謙虚さと一緒にじわじわと自己肯定感などが育つことで、後々の行動化につながればよいと思います。

今公立小学校では、グローバル化とSDGsに基づく問題解決力の育成が叫ばれ、学習指導要領もそれらに基づいて構成され、その流れが降りてきています。大人の世界の都合で、子どもたちの学びの低年齢化が起きているように思います。公立学校教員の中では、「子どもたちだけでクラスがまとまっている!」と、それが素晴らしいことのように述べられることもありますが、本当にそこに価値があるのでしょうか。子どもたちだけで授業が成立していることも美化視されていますが、それは本当に必要なことなのでしょうか。シュタイナーの学びは、僕に、世界(特に教育も)に対しての新しい視点を与えてくれています。

 

【言語造形】

 天地開闢

 ソポクレスの「オイディプス王

 宮沢賢治風の又三郎「どっどど…」、注文の多い料理店「わたしたちは、氷砂糖を…」春と修羅「わたくしという現象は…」

これらを劇のように、言葉で表現しました。呼吸、言語身体表現、デクラメーション(演説的)とレシテーション(朗読的)など、初めて概念ばかりで一日目はとまどいましたが、2日目はとても楽しめました。言語造形の時間は、僕たちが体をまるごと使い、言葉で何かを表現する時間でした(いや、言葉をもとに体をつかって何かを表現するだったのかもしれません)。

 シュタイナーによると、教育的行為の中で「呼吸」が大変重要な項目となっています(なぜかはまだまだ理解不足ですが)。言語造形の時間では、まさにこの「呼吸」を扱ったように感じました。呼吸に合わせて体を使い、体の動きが声を創り出す、とても新鮮で面白く、なんとも自然な感覚でした。声だけでなく、体を使って表現する活動では、『頭で考えて動きを創るのではなく、声を出すことで、体はそれに導かれるように動かす』という感覚がとても楽しかったです。これまで自分が経験した即興劇(インプロビゼーション)で初めての感覚を得た時を思い出しましたが、またさらにインパクトがあり、表現について自分の感覚が新しいステージに進んだ気がします。とにかく自然で楽しい時間でした。そして、まだうまく言葉にできません!(笑)もっと体験を積み重ね、体の中で熟成させていかないと、でした。

 

 【子どもの観察】

シュタイナー学校で二週間に一度行われている、子どもの観察(教員会)を体験しました。

僕自身、シュタイナー教育に関心があるのは、その教育方法だけでなく、先生たちの学び合う関係、組織の仕組み、保護者や地域との協力関係なども、でした。これらに、公立学校に提案性があるように感じていたわけですが、今回の観察はまたとても示唆に富んだものでした。

イメージしていたものとの最も大きな違いは、「ある問題について取り上げて、その問題を解決するために子どもをどのような方向に支援していくか」ではないということでした。おそらく、日本中の公立学校のケース会議はこれです。

子どもの観察は、教師側の子どもたちの見方を再考することに始まり、これに尽きるといっても過言ではありませんでした。そして、教師が自分のあり方を見つめなおすことにこそ意味がある、と捉えられているようでした。「私たちが子どもを変えるなんて、おこがましい!」とさえ思いました。私が変えられるは私自身で、子どもたちへの尊さを忘れてはいけないなと感じました。

ある特定の子どもを取り上げ、その子の担任から客観的な情報を共有してもらいます。私たちは「この子はこんな子」という見方に良くも悪くも凝り固まってしまいます。ですから、ここでは髪型、肌の色、来ている服など(爪の形まで!?)などの客観的な情報を共有し、参加者である教師側の心の中に、その子の像が浮かび上がってくるのを体感します。その後、エピソードも共有しますが、担任の価値観による感想は不要で、事実のみを伝えることで子どもの像が浮かび上がってくることが大事なのだという感じがしました。

像が浮かび上がると、いろんなことが自然に浮かんできます。「彼はこんなときこんな風に思うのでは?」「彼の行動はきっとこんな背景が…」一人ひとりの教師が浮き上がらせた像が同じでも、教師の視点はそれぞれ異なります。そしてそれを共有することで、担任は新たな視点を得て、自分自身のあり方を再考することになるように感じます。「浮き彫りしてくことで、浮き上がってくることを観る」という素晴らしい言葉をいただきましたが、まさにその通りでした。

さて、この「像をつくる」ということがとても不思議なもので、像をつくるから見えてくるものがあります。「これがこうだからこうで、だからこの子はこうなんだよ」ではなく、論理を超越した子どもの捉え方から得られる知見を得ることができます。この世界には、論理的に説明できないことがたくさんあります。今日機嫌が悪い原因は、結構論理的に説明できないところにあったりします。ですから、そういった論理だけでは捉えられないものも浮き彫りになってくるこの観察法が、なんとも驚きでした。

また、今回は僕が担任している子どもを取り上げて実際に共有してみたのですが、参加者のみなさんの中にできた彼の像を共有すると、なぜか普段の職場で共有しているはずの同僚よりも彼のことをわかってもらえたような感覚になりました。そして、その共有感覚がとてもうれしくて、みなさんと彼を会わせたい、皆さんに会ってほしいと感じさせられ、そしてその瞬間、僕は、彼にとても会いたくなりました。とても不思議な感覚でした。

 この子どもの観察は、定期的にあることにとても大きな価値があるように思いました。この時間は、私たちの子どもたちへのまなざし、教育観、人間観を育む時間になることが推測されます。問題があってからではなく、定期的に行うことに価値があります。忙しい中ですが、とても大事な時間なのでしょうね。それらの感覚も、得てみたいです。