もっさんのブログ

もっさんです。小学校の先生をやっています。幸せな社会、家族、個人を実現できるために、自ら動きだせる人が増えることを願い、教育に携わっています。そのために、大人ができることは?理想とする社会、家族、個人の姿ってどんな姿?日々模索しています。

 横浜シュタイナー教員養成1年目【「ルビコン期(9歳の危機)の教師のあり方」】

(2年間のシュタイナー教育教員養成講座の半分が終わったので、ここまでをふりかえってみる)

その5【「ルビコン期(9歳の危機)の教師のあり方」】

●「ルビコン川を渡る」とは、後戻りのきかない道へと歩みだす、その決断を下すことを意味する。シュタイナーは、9歳ごろに自我が目覚め、自分と他者や自分と世界との違いを知り、これまでの認識ががらっと変わってしまうことこの時期を「ルビコン期」と表現した。、自分というものの存在を他と独立したものと認識し、自分自身の存在が揺らぐので「9歳の危機」とも呼ばれている。
詳細はここ
●ここまで子どもたちは、先生のことを「自明の権威たる存在(自ずと仰ぎ見るような存在。『ああ、この人素敵。すごい。この人についていきたい。』と思えるような、内から出てくる権威的(尊いと感じる)存在)」として見ているのが健全な関係性。
権威って言葉、ちょっと合わないので上のイメージで読んでくださいね。
しかし、このルビコン期を迎えると次のような心情が出てくる。
★先生はどうしてそんなことを知ったのか?先生の背後にはどんな世界があるの?
★先生が言っている真・善・美なるものは、本当に自分の中に有しているものなの?(口だけじゃないの?私たちの前だけじゃないの?)

「子どもの無意識的本性は、見事な方法で教師を吟味します」(ルドルフシュタイナー講義より)

つまり、教師はそのあり様・生き様がホンマモンか吟味される(試される)ということ!

(みなさんが小学2・3年生の頃 自分の変化というか、自我の芽生えというか、世界と自分、他人と自分は違うとか、何か衝撃的な認識上の変化はありませんでしたか?まぁ、ぼくはあんまり覚えていませんけどね笑)
●では、教師はどのような立場でいればよいのか。
私たちのあり様・生き様がホンマモンであればよい(つまり、教師が人として、子どもたちの恥じない姿であればよい)
→私たちは常に学び続ける学び手であること。子どもの前に立てる存在でいること。
ただし、完璧であるということではないように思う。特に現代は、完璧な大人なんていないって子どもたちは知っているし、そんなことを示そうとすると嘘っぽい。それよりも、自分の課題を自覚し、それに向かって進んだり悩んだりしている姿も見せたほうが、子どもたちも先生がホンマモンだって信じて、その姿に権威たる尊敬たる感情をもつし、そうやって進んでいるんだっていう姿そのものが立派なモデルになる。
もちろん、共感と愛をもって接することも大切。愛をもっていしっかりと子どもたちの感情を受け止め、共感することそのものも、人としての生き様であり、子どもたちに恥じない姿であるように思う。
●もちろん、シュタイナー学校のカリキュラムは、このルビコン期に合わせたカリキュラム構成になっている。自分を客観視するようになること、世界を自分と別のものと見ることができるようになってきたので、自然科学の学びがはじまる(公立小も一応そうかな?)。音楽もオイリュトミーも水彩も同じく、この変化に合わせた学びになっている。スゴイネ。
●関連して…先生は経験を重ねると、自分の道徳的判断基準が明確になっていく。大人の道徳的判断基準が明確で、気分によって左右されず一貫していると、子どもたちは安心して信頼して過ごすことができ、それが子どもからの権威になりうる。この点は最低でもクリアしたい基準だと思う。