もっさんのブログ

子どもたちの明るい「今」そして「未来」を求めて模索中!★留学に向けたこともあれこれ書いていきます★最新記事一覧は、こちらを押してねん↓

横浜シュタイナー教員養成  GWの学び(2年目)

今回のGWも、シュタイナー教員養成講座が3日間行われましたので、ふりかえりを書きました。

 

【物理学】

 物理学では、「音」をテーマにした学びを体験しました。シュタイナー学校では6年生で取り扱います。なぜか?それは、論理的な思考ができるようになってくるのがこの年齢であり、実験を通して因果関係を把握したり、比較・類推といった思考を操作したりができるようになるから。子どもの特性をしっかりと捉えて、そのうえでカリキュラムが考えられているところが素晴らしいと感じます。
 
 シュタイナー教育には、「道徳」の時間がありません。それは、カリキュラム全てにおいて道徳的な要素がふくまれているからです。では具体的に何が?

 例えば学びの基本はサークルであることや、学びが敢えて「個別化」されていないところから生まれる共同体感覚などにあるように思います。
 ただし、「逸脱行動を容認しない」「横一列でそろえること」「学びやすさより教えやすさ」などの負のイメージを持つ、いわゆる日本的な集団一斉学習とも異なります。そしてそれらがテクニックとしてではなく、脈々と根底に流れている文化のようなものであるからこそ、子どもたちも他者を気遣う・理解するテクニックではなく、もっと体や心や魂の奥底に染みわたるようにこの感覚を身に付けていくのだと思います(意志に刻まれていく、というやつです)。
 この辺りがとても面白いですし、僕が2年間講座を受講して肌感覚でこの良さを理解してきたところです。
 
 さて、物理学の目的ですが、いただいたレジュメの中に、「生徒の道徳的な力を目指めさせます」と書いてありました。大事なところを引用すると…「物理の授業は他のあらゆる授業と同じ目標、すなわち、生徒の思考、感情、意志の発達と育成に向かって努力します。この目標をしっかりと心に留め、題材をあまり重要と思い込み過ぎないこと。私たちの授業の内容は、目的への至る手段であり、目的そのものではありません。」物理で扱う、例えば「音」という題材は確かに大事ではあるが、音を学ぶことの上位目的(真なる目的)を常に忘れず、子どもたちの中で起きていることやその発達は、題材やテーマよりはるかに重要だということです(ステキっ!)。
 
 とはいっても、題材やテーマも重要です。講座の中では、2年間を通してどの授業でも、感情が動くことを大事にしていて、そのために題材やテーマとの「出会い」がとても大切にされていました。今回の「音」に関しても、3日間ともいい大人(受講生)たちは、思わず感嘆の声を漏らし、自然と席を立ち「こうしたい」と動き出し、時間を忘れ没入して楽しんでいました。どれもこれも、「音」が世界の中でどのように存在し、それがどれだけ畏敬されるようなものであり、美しいものであるかが、自然と私たちの中から沸き起こってくるものから感じられました。(いちいち美しいんです!笑)
 
 また、扱われている実験道具が素朴で日常生活で手に入るものであることも、とても重要に感じました。ビン、ひも、スプーン、ボウル、塩…日常生活のものであるからこそ、実験がリアルなものになります。また、私たちは家に帰ってからも、家にあるもので実験を続きができます(したくなります)。小さな子どもがなんどもなんども同じ絵本を読んでもらって楽しみ、味わうのと同じで、僕も何度の何度も同じ実験を家でして、感動や驚きを味わいたいと思いました。(今話題の「探究」ってやつです)
 
 「家でうちの子にも体験させたい!」と思いましたが、やめました。この体験は、その年齢で、定められたシチュエーションで行われるからこそ、驚きがあり、感情があり、学びの楽しさと世界の美しさを体感し、意志にはたらきかけていくのだと学んだからです(今まではあまりそんなことは考えていませんでした)。
 
 学びの過程において「観察」がとても重要な位置づけになっていることがよくわかりましたが、この点はまたの機会に考えていきたいと思いま

 
【本「教育の基礎としての一般人間学…Allgemeine Menschenkunde als Grundlage der Pädagogik. 第7~9回】


 今回の難解レベルは、僕の中では過去最高でした。
 
 シュタイナーの思想はスピリチュアルなものであると考えられがちですが、実際に学んでいると、彼がとてつもない観察眼をもっていて、ひたすらに人間を観察した結果見えてきたことから、彼の根幹たる人智学が体系化されているのだということもわかってきました。とても科学です。ある一点を状況や文脈から切り取って見えてくる科学的なものの見方は△で、世界を生のものとして捉えると「観察」こそが世界を知るための最善の方法と言っているのだと思います。僕が大学生・院生時代に学んできたことですが、今の世界が、客観的な事実を量的に分析していた「量的な研究」から、事実を前後の文脈からどう分析して理解する「質的な研究」へと、大きくシフトしてきたことを考えると、このシュタイナーが言っていることも納得される方も少なくないと思います。
 
 教育を考えていったときに、小学生という年齢の子どもたちに正しい意志をもてるようにするためには、表面的な「やり方」とか「知識」とかを教えることではなく、感受作用(感情作用をともなった意志の作用)をとおして意志(無意識的な力)にはたらきかけることが、子どもの本質に沿っている方法だと述べています。
・記憶することに関しては、感情と意志の側から。
・感情に作用するには、驚きがあり、感覚が刺激される、感動することから。
・意志に作用するには、体を動かし、体験し、習慣として物事を行うことから。
・理解することに関しては、概念の定義を教えるのではなく、性格付けを行うに留める。
このあたりがポイントだったと思います。
 
 概念の定義と性格づけについては、こういうところにも、早期教育や知識偏重な教育に危機感を感じます。事物や現象に心動かされる出会いのチャンスが奪われています。また僕は、物事を多面的に見て思慮深くとらえていく姿ではなく、どこかで知識として知ったことを「こうなんだよ」と固定化して捉え、他者に伝えていく子どもたちの様子をたくさん見てきました。しかもこういう固定化した概念の言葉は結構強力で、例えば「ドライアイス二酸化炭素を固体化したものだから氷より冷たいんだよ!」と誰かがいえば、周りの子どもたちには「そうなんだ…」となり、反論も出ません。「そういうものなんだ…」と思ってしまいます。

 知識的な面でも、情緒的な面でも、社会的な面でも、思慮深さをもった人に育ってほしいということが、最近の僕のキーワードです。学校の授業では、定義は最低限でいいし、教えようとするのではなく、体験できるようにすることがそのほとんどで十分だと思います。
 
 シュタイナーの言葉は、そのために、教育ができることが何か、一つの答えを示してくれている気がします。

 
【オイリュトミー】


 今回も素晴らしい時間でした。

 今回、ようやく僕の中に、肉体の周囲にあるものを感じられるようになりました(って書くと、大丈夫か?と言われそうですが。はい、大丈夫です)。敢えて言葉にすると、「みなさんとの調和や一体を作るために、動きの中で五感以外の知覚を使った」「自分が望む方向、形、姿勢に道がれるように体が動かされた」ですが、やはり言葉にすると陳腐になります。

 オイリュトミーの中での足の運び一つですら、もう私たちは無意識に変化しています。きっと意志の中に落とし込めているのだと思います。講座の中で「涙が出そうになりました」とお伝えしましたが、あのサークルから前向きに皆で歩み始めた動きの変化、流れている音楽、空気間が、美しさを感じたからなのでしょうか。もちろん、あのメンバーだから、というのもあると思います。

 今の子どもたちを見ていると、「どうやっても前回り(前転)できないだろうな」と感じることが増えています。環境が変化し、子どもたちが体をいっぱい使って自由に動ける環境がなくなっています(特に保育や幼児の年齢!)。体と向き合うこと、体を育てることを小さいときにしていないから、体がどう動くのかもわからないのかな、と感じます。僕は、オイリュトミーを通して、この感覚が研ぎ澄まされるのを感じます。

 講師の先生の言葉は、僕に新しい見方・考え方を与えてくれます。全然理解していませんが、でも理解できます。矛盾しているようですが、それが人間なのでしょうね。この先がとても楽しみです。

 
【水彩・木工】

 単純に、楽しくて、無理がない、といった感じです。やっていることはとてもシンプルですが、そこに意識が入り込んでいくことと、美しいということの2点が気持ちを満たしてくれていました。色彩遠近法を扱っていただきましたが、きっと本当に入り口だけなのだと思います。もっともっと知りたいと純粋に思わされました。木工は、技術に頼らず、周到に用意された材料に頼らず、といったところがまたよかったです。家に帰ってからもやろう、と思わされています。

 
【音楽体験】


 また今回も、音楽がとても美しすぎでした。シュタイナーの講座で歌った歌は、もれなく家でも口ずさんでしまいます。「いちいち美しいんだよ・・・」と家で妻に話しています(笑)
 
 講座終了後の数日後に、妻が娘に習わせたいということでピアノ教室の体験を予約してくれたので、一緒に行ってきました。ピアノ教室の先生が悪いのではなく、きっと世の中一般にあることなのだと思いますが・・・↓

 僕は違和感たっぷりでその場にいるのも苦しくなっていました。もともと大きな音が苦手でしたが、部屋の中でのグランドピアノはあまりに音が大きく、音の暴力に感じてしまいます(これはリトミックの教室でも感じたことです)。「3歳だからテンポよくやらないと飽きてしまうので・・・」とやっていただいき、早い流れの中で「理解」「覚える」ための機械的な拍と音階の練習(工夫はありましたが)。様々なところに、「我慢することが大切」というピアノ上達へのスタンスを感じさせられ、「これで音を好きになるのか」「これで美しい音を知ったり、『聴く』ことや音への尊厳をもったりすることができるのかな」と違和感をもちました。ピアノを上達することが目的に感じますが、それは音楽なのでしょうか。シュタイナー学校の音楽の時間は、まさに音への尊厳をもたせてくれる美しいものでした。

 ただ、公立の学校でも同じことがよく起きています。先生たちは「カリキュラムにあるからこれをやらねば」「保護者のニーズはこれだからやらねば」「同僚の目もあるし、管理職にも言われるから」と、いろんなものに右往左往されていて、手段と目的を混同してしまったり、目的を忘れてしまったり、忙しさやニーズにいろんな見えなくなっていってしまいます。本当に現代は、大変な世の中だなって思います。もしかしたら、ピアノ教室の先生も、本当は違った目的があり、違ったことを大切にしてほしくてやり始めたのに、ニーズや生徒を増やさねば教室維持が難航してしまうことなどで、変化していってしまったのかもしれせん。生きていく中で、人はいろんなものに絡み取られてしまいそうになります。

  シュタイナーの学校は明確な方針があり、それを学校だけでなく保護者を巻き込んで維持していることで、この「絡み取られる」ことがあまり少なく、世界中で百年以上も根強く残っているのでしょうか。その「強さ」にとても関心があります。ここまでの音楽の学びを通し、そして日常の音楽教室を体験し、そんなことをいろいろを考えました。