「見守る」関わり方こそよく気を付けて
子どもたちに関わる仕事において、その関わる大人の関わり方が、ここ数十年で大きく変化してきたように感じます。その中で、「見守る」が増えてきました。「見守る」は、とても難度の高い関わりです。
子どものやりたいことを尊重し、子どもの考えや価値観、時間などを大切にしたい人は、あれこれ口や手を出すことを控えます。昔からそういう方はいましたが、昨今この価値観がとても広がってきました。それはよいことだと思います。
よく、大人が「介入しすぎる」ことと「介入が足りない」ことの間でせめぎあいが起きます。簡単に言うと、うるさくなりすぎていないか、放っておきすぎていないか、ということですね。子どもに関わる立場に成りたてホヤホヤのころに、よくやらかします。
以前は「介入しすぎ」がよく目につきましたが、近年は「介入が足りない」が目につきます。「見守る」ということが美化されすぎて、「そこは介入するでしょう」というところで介入が足りてないケースがよく見られます。
「子どものやりたいように…」
「子どもが選んだから…」
「子どもたちが気づくのを待っているんです…」
「体験は大事ですからね…」
「子どもが言っているんで…」
「人それぞれなので(子どももそれぞれなので)…」
「見守る」という関わり方は、「指導」とは違い、最高難度の関わり方だと思います。子どもや、子ども同士の中で起きていること、関係性、文脈、その先に起こることなど、様々なことを見通すことでこそ、「今は見守るでよい」と判断ができます。そして時には、その子を思って、ベストなタイミングで介入します。子どもの主体性や気づき、子ども同士の関係性などを損なわない形でベストな介入をします。これこそが、子どもと関わる仕事のプロフェッショナリティだと思います。
これを誤ると「見守る」は、大変な弊害を生みます。成りたてホヤホヤさんの初期によくあるのが、「見守る」ではなく「見ているだけ」です。例えば、ケンカの場面です。大人知っているのに介入をしないでただ見ていることが、いじめや不平等な関係性を承認し助長している第三者と同じ構図になっていることが起きています。この場合の、やられた側の子は大人に対してかなりの失望を経験します。もちろん、「とにかくすぐに介入すればいい」なんて安易なことは言いません。
「大人の目を気にして行動するようになるから、介入はしないんです。」という意見も聞いたことがあります。そのケースの問題は、介入することではなく、介入の仕方でしょうね。子どもは、やっかいな介入、不信な大人の介入と思っていますね。「すぐ叱ってくるんでしょ。監視しているんでしょ。」と思っていますね。子どもへの関わり方を見直すといいと思います。
初期は子どもに大人の姿を気にされてもいいと思います。子どもに大事なことを学んでもらってから、少しずつ、手を放してあげればいいですよね。メッセージとともに温かく見守るようにすればいいと思います。すれば、やっかいな介入とは思われにくいです。信念は大事ですが、よく子どもたちをよく見て判断していきたいです。
親にも少し似たことが起きています。昔は口うるさく親が子どもを注意したものですが、今は逆に「口うるさく言うのはよくない。子どもに考えさせよう、体験させよう。」という流れがきています。でも逆に、あれこれ言わない(言えない?)ケースが増え、気になっています。公共施設で椅子の上に靴で乗っていたり、超えてはいけない柵を超えても何も言わなかったり、親がしっかり決めるはずのことを子どもに委ねてしまったり、または子どもの反論で簡単に覆ってしまったり・・・
しっかり子どもたちと「向き合って」あげているのかな、とも思います。
「向き合う」ということについては、また次回書いてみます。