もっさんのブログ

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新・学校教育目標がスタート!どうやって生かしていく?

前回お伝えした通り、R3年度に完成した学校教育目標が、ついにR4年度に施行されました。

大事なのは、これを生かしてくこと。完成してからが重要だと思います。

4月の時点で、生かし方について考えていたことはこんなことです。

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R4年度のわが校の学校教育目標が完成しました!!(報告遅っ)

(相変わらずの多忙で、ようやくここでブログを更新できます…)

 

3月末、子どもたちが春休みに入る前に、

ついに令和4年度の学校教育目標が決まりました!

コレです!↓

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横浜シュタイナー教員養成1年目【音楽】

(2年間のシュタイナー教育教員養成講座の半分が終わったので、ここまでをふりかえってみる)

その3【音楽】

●まず音楽といっても、いわゆる一般的な音楽の授業を想像すると衝撃を受ける。僕が受けた横浜校では、数あるシュタイナー学校の中でも「聴く」ということに特に光が当てられている。その真意は様々だが、自分感じてきたことをふりかえってみる。
●一年間を通して、
とにかく「聴く」ということに焦点を当て活動
自分・自分たちの中に何が起こったか、どんな発見があったかなどを ふりかえる 
を繰り返していった。
ただし、「聴く」の本質として、「渡すこと」と「受け取ること」があるように感じた。
例えば、サークルになり、ボールを誰か(適当ではない、ちゃんと相手を見て、呼吸を合わせてから)に転がす。受け取った誰かが、また誰かに転がす。
例えば、薄いシルクの長い布を二人でもち、言葉を発せずに息を合わせて持ち上げ、布に合わせて自分たちの手もおろしていく。
こんな活動もすべて「音楽」であり、「聴く」につながっていく。
●もちろん、音を出すもの(楽器というとなんか違う気がする)を使った活動も行った。しかし、すべての楽器が一つ残らず素晴らしい音を出すものだった。
聞けば、音楽療法に使うような楽器であり、ミニシンバルも、ゴングも値段を調べてみたらとんでもなかった!(笑)
でも、あの音を聞いたら、「聴きたい」と素直に思うし、音を大事にしたいとも思うし、音の余韻を味わいたいとも思うし、きれいに奏でたい(音を大切にしたい)とも思う。音を出すものにこれほどの力があると感じたは初めてかもしれない。
●これまでの自分や自分の身の回りの音楽とは、音との出会わせ方が圧倒的に違う。鍵盤ハーモニカの大きな音の合奏、とにかく指使いや曲の完成に焦点化されてしまう授業、「声を大きく、元気に!」が望ましいこととして、どんどん進めていく。
高学年であれば、僕は出会う子たちが、曲の前奏で喋っているのがとても嫌で、「もっと音を大事にしよう。音楽の前奏ってどんな意味があると思う?」と問いかけることがたくさんあった。「ああ、音を大切にしていないなぁ」って思うことがたくさんあった。音を大切にできるような教育になっているだろうか?
●思えば、僕は駅でよくある引き語り演奏が好きではなかった。自分が聞きたいわけでもないのに、勝手に僕の耳から体に入ってくる。音は防げない。だから、「なんて暴力的なんだ」と感じていた。
シュタイナーの音楽講座で目覚めた僕は(笑)今は周りの音がよく聴こえる。車の運転でBGMをかけないことが心地いいって気づいた(車内でかける音が煩わしいと思うようになった)。そして、自分の体が美しい音で整っていくのを感じている。

横浜シュタイナー教員養成1年目【水彩】

(2年間のシュタイナー教員養成の前半が終わったので、ここで自分のために少しずつふりかえってみる)

その2【水彩】

●透明性水彩絵の具をつかった水彩画。「ぬらし絵」というものをやった。シュタイナーは、まず色の感覚をもつことをとても大切にしている(というか、なんでもとても大切に丁寧に扱い、感覚を研ぎ澄まさせてくれるようにできている)。そして、大前提として、大事なのは「描くプロセス」であり、描いていく中で起きる色の変化や、みずみずしさのある色の美しさを味わうことにこそ価値がある(だから先生は、乾いたあとのものは「抜け殻」と表現していた)。
1年生は単色や、単色同士の組み合わせから感じ取れることを味わう。そして、いろいろな色と出会う。この色が、使っている材もあって大変美しく、奥深い。子どもだましの画用紙や絵具ではない、深みと美しさのある素晴らしい本物の色あいを見せてくれる。「そう、色が生きているんです!!」
はそれぞれもっているエネルギーが異なるし、その受け取りも様々で面白い。2年生は「混ぜる」から生まれるものを感じ取る。もっと成長して学ぶのはゲーテの「色彩遠近法」をもとにした描き方と見方。色が持つ力をこんなに感じ取れるカリキュラムが本当に素敵だし、それが子どもたちの育ちと関連付けられていることにも素直に驚く。
●描き方を教わっても、描き方単体ではまなばない。例えば、真ん中に丸い黄色、周りは青で塗って、次第に青と黄色を混ぜていくだけ、をやるとする。それだけだとしても、「カエルの王子様」のグリル童話を聞いたことで絵のイメージが自然と沸く。描く手順も物語の通り。そして、物語の世界を紙の上で実現させようと、わくわくが止まらない!
「はい丸かいてー 周りぬってー だんだん重ねてー 色変わったねー」
とは大違い!!恐ろしく大違い。混ざる瞬間のドキドキ、「今の色を大切にしたい、でも物語を進めなきゃ、ああ、わたしの黄色の玉(毬)が、ああ~~!!」と。思わず受講生からも声が出てしまう。こんなに描くことにのめりこめるなんて、素晴らしいと思う。この美しい色を混ぜたくない、けど混ぜてみたい。素敵な葛藤。 
●水の流れを先に書き、その隙間に生まれたところを黄色く染めて魚を書いた。流れに自然に合わせて魚を書くから、魚本来の流線形が合理的なこともさりげなく理解してしまう。そして美しい! シュタイナー教育は、本当にすべて美しい。
●一般的な図工を批判的にふりかえってみる。「自由にかく」って、本当に低・中学年に必要なのかな。先生たちですらうまく扱えない「絵の具」を、小学生になった途端からずっと使い続ける必要があるのかな。持ち帰ったらゴミになってしまう、やっても何も身につかない、子どもだましな教材。大人の空想や児童像を「子どもの想像力は素晴らしい」と当てはめて美化している図画工作。本当に子どもはそう思っているでしょうかねぇ。
 ★★転じて★★
社会の要請で教育が決まることは正しいことなのか。早熟型の子が評価されがちな社会構造の問題点はすさまじい。早くできる(年齢が低いうちにできる・目覚めている)=優秀という認識。受験競争も、結局は小さい時に能力が高い子が勝つ。じゃあ晩成型の子は?なんだか、こういうことに早くに巻き込まれる子どもたちがかわいそう。早熟型の子が大人になって、ガス欠する話も聞くし、晩成型の子が、小さいときに評価されず自己肯定感が低い話もよく聞く。大人社会の都合に、子どもたちを巻き込みすぎてはしないか。(加持さんもエヴァ破で言ってる)
「教育の成果はいつ出るかわからない」というが、結局早期の結果を求めているのが現代社会。子どもたちに合わせていない。子どもたちを見ていない。見ているのは大人の都合。その点は、シュタイナーの見ているものは本当に「子ども」です。僕も、そこが本質だと思っていたので、同じ時代に会っていたらシュタイナーと仲良くなれると思う(笑)
 
→関連記事です。
 

横浜シュタイナー教員養成1年目【オイリュトミー】

(2年間のシュタイナー教員養成の前半が終わったので、ここで自分のために少しずつふりかえってみる)

その1【オイリュトミー】

オイリュトミーは 体を使って宇宙、人、文化、言葉など、様々なものとつながりながら、そのエネルギーを感じて体を動かすもの。表現活動でもあり、調整?活動でもあり、受容的活動でもある。いろんな意味が含まれている、とても不思議な活動。 
●インプロ(コンタクトインプロビゼーション)やっていてよかった。これが自分のオイリュトミーの質を高めるのを助けてくれた。 
●みんなで円になり、互いを意識しながら、一緒に同じ空間を作る。といっても、個人も大事にしているので、窮屈に自分を周りに合わせているわけではない。 
ゆっくりとした動きにこそ、体をよく意識する。上げた手を下す所作も、ストンと落とすのではなく、大きなシルクの布が風を感じながら静かに落ちていくように、葉が重力と空気感じながらゆっくりと落ちているように、そういう所作に地球そのものを感じ体現していく感覚がある。なんだか、自分の感覚が磨かれていくのがわかる。 
●オイリュトミー療法のほんの一部を体験した。高く上げた「i」の手を上下に揺らす。左右両手対照的に揺らす。体も揺れるが、次第に自分の軸を感じ、手を揺らしても体がぶれない軸・芯を感じるようになる。すると、体が中心を得て、整うのが感じられる。姿勢も、心も、すっと整う感じ。光が上から下まで突き抜けていくようだ。僕はこれを、毎日やろうと思った。
●朝の鐘と夕の鐘 長調短調 体から光が出るイメージと体の中に入っていくイメージ
心地よさの感覚も人によって違った。
1年間の受講を通して、受講生一人ひとりの足の運び、ものの動かし方など、すべての所作が丁寧で、無意識的に調和的になっているのを感じた。これは、オイリュトミーの時間に関係なく、であったた(つまり汎化が起こった)。一緒に空間を作り出している感覚が当たり前になり、それが一つ一つの体の動かし方に変化を与えていた。話している数よりも、一緒に作り出してきた共同体感覚のほうが優勢。とても不思議な感覚。

シュタイナー教育『自明の権威たる教育者』

(今回は難解です。初心者要注意笑 お付き合いいただける方だけよろしくです。長いクセに伝わりにくい。本当に伝えるのが難しい。)

シュタイナー教員養成講座

『自明の権威』たる教育者の存在

9歳の危機
と言われる9歳

◇ちょっと身近な例を交えながら解釈してみる。

今まで、ワタシとお母さん(主に)はほぼ同じ存在で、お母さんが笑えば私もわらう。お母さんと気持ちの共有は当たり前。友だちについては、ワタシが楽しいと思うものはみんなも楽しいと思っていた。ワタシと親(母親)、ワタシと友だちは自分と同じ感覚を持つ生き物と認識していて、世界の法則はワタシの認識できるものでできている、とさえも考えていた。

けど、9歳のこの頃、例えば、自分の生まれる前にも、死んだ後にもこの世界はあることを気づく。世界は自分に無関心に動いている。他者にとって自分は他者で、ついには孤独感を感じてしまう。自我が芽生え、自分自身についてよく考える、ということが始まる。

この不安定な時期に入る子どもたちの教育のキーポイントは?
それはシュタイナーいわく、『自明の権威』たる対象の存在だそう。
この用語、とても、誤解を生む。きっといい日本語がなかったのだろう。

自明の権威とは、自ずと仰ぎ見るような存在。『ああ、この人素敵。すごい。この人についていきたい。』と思えるような、内から出てくる権威的(尊いと感じる)存在をもつことで、子どもに安定をもたらす。この存在として一番に想定されるのは、『学校の先生』である。だから、先生は自明の権威たる存在であることが望ましい。
 なんで?
 後述。
 

小学生は、論理や因果関係でものごとを捉えていないから、説明はうまくはいらない。(入ったようには見える)「教えよう」とするのではなく、もっとわかりやすく、感覚に沁み入り、背中を見せて正しい方向に導くのが適切。これが、『自明の権威』が子どもの学びと成長に最も適する理由かな。

12歳までの子どもたちは、物事を因果関係で捉えることが出来ない。子どもたちは、愛情のあるもの、具体的でイメージで分かるもので理解する。だから、まださまざまな事柄のつながり、背景にあるものを想像して物事を捉える事が難しい。わかってるような発言をする子はいるけど、表面的理解なことなことが大半。
→この辺、先生をやってる人は分かると思う。素敵な話し合いをしていても、「あれっ?」と突然違う方向に行ったり流れと違う結論になったりすることは多々ある。

子どもがそういう特徴があるから、教育もそのような特徴をもとに行う。教えることは、イメージの伴うもの。例えば植物を切り離して捉えるのではなく、有機的生命体として土やら周囲の環境と共に捉える。論理的な説明はほとんどいらないし、論理的な先生よりも、愛情にれあふれ、心を動かし、具体的でイメージできるもので学びをうみだせる先生が望まれる。

この時期の子どもたちに、物事を判断させないようにと、シュタイナーはいう。意見文のようなものも、良くないという。それは、因果関係をまだ理解する段階にないからだと思う。
例えば、以前クラスでウクライナ情勢について、安易にロシア批判をしているのを聞いた。子どもたちは、いろんな人たちがいろんな考えで動いてこういう結果になった、と言うことまで思考がいかない。まだまだ、様々なものを結びつけて広くみて、判断することができない。先も述べたが、討論のような事をしても、教師の介入なしに適切な答えを出すことは、『運』のようなもの。変な方向に行ったり、変な結論になることは多々ある。だから、例えば『好きな色を選ぶ』
などの判断はいいけれど、大きなものごとの判断は、子どもにさせるべきではない。

シュタイナーによれば、この時期の子どもに物事を判断させること(特に批判的判断)は、後に子どもに多大なる負の影響があり、自由を獲得することも出来なくなるという。

確かに5年生後半あたりから、子どもたちはよく何かを悪くいう。言うことについては、そうだねーと流せるが、行動にまで移すとなると放っておけないことは多々ある(まさに中学生)。

子育てにおいて、5・6年生以降は、親の言うことはあまり入らなくなることは、これ以降の年の子どもと接した人は分かると思う。
5・6年生から中学生の時代において、子どもたちには指導より、いかに素敵な大人や素敵な先輩、友達に出会えるかが重要。そういう素敵な人たちを行動指針にする子どもの姿を、よく見る。ここも、『自明の権威』と完全に一致する。

ただし、ここの、どこを委ねてどこを、委ねないのか、と言ったバランスは見極めないといけない。判断させないと言っても、全てそんなことしたら、それこそ誤った権威になる。それはもはや権力者の悪政になり、子どもは大人を『自明の権威』として仰ぎ見ることがなくなる。大人は『口うるさい大人』に失墜する。

シュタイナー教育『子ども>カリキュラム の学び』

シュタイナー教育は一言で言うと
 子ども>カリキュラム
の要素が、とても強いと感じる。
 

 

(他の学校や教育はどうなのでしょう。専門化ではないのですべては知りませんが、シュタイナーはかなり強いと思います)

 

 

おそらく、世の中の学校はほとんどが
カリキュラム(何を学ばせるか)ベースでできている。
■どんな力を身に付けさせたいか
■どんな人間が社会で求められているか
これらをベースにしているから、
子どもたちそのものより、カリキュラムが前に出てくる。
そして、かなりの確率で、
子どもが置き去りにされ
カリキュラムが第一に大事にされて
子どもにストレスがかかり、
やっても身にならない学び(そりゃ言い過ぎか?)が連続してどんどん降ってきて
息苦しい教育や学校になることが多々ある。

 

 

一方で、シュタイナー教育
最初のウォルドルフ(シュタイナー)学校ができてから、
100年経ったいまでもずっと
社会の要請ではなく、
人間を人間として、自由に生きていくための教育を行っている。
分かりやすく言えば、「幸せに生きるため」
時代が変化しても、
変わらず大事な
人として根底に必要なもの
そんなものを大切にする教育。
だから、100年前の思想でも
ずっと変わらず受け継がれているんだとわかった。
(僕は「100年変わらないってどうなの?」と疑念をもって学び始めたが、今はすごく納得いっている)

 

 

 

シュタイナーは
人間という存在を
人智学(アントロポゾフィー)の視点から
ひたすら深く捉えている。
その捉え方が難解&現代の合理主義社会と合わず、
とっつきにくく、広まりにくくなっているといえる。
(こうやって書いても伝わらない大きな理由でもある)

 

 

 

でも、シュタイナーの教育学を学ぶと、
本当に「子どもとはどういう生き物か?」が全てのベースになっている。揺るがない根幹、とてつもなくどでかい幹になっている
カリキュラムは確かにあるけど、
カリキュラムはこの「子どもとは?」の答えが完全に一致して作られていて、
教育の捉え方・考え方が、
子ども>カリキュラム
に見える。
そして、子どもや人間の捉え方の奥深さがすさまじい。

 

 

 

 

社会の要請ではなく、
人間というのはどういう存在で
年齢を基準とした人間の発達的変化に伴い、
そのときに合った学び方で
そのときに必要な力を最大限伸ばし
そのときに人間的発達で考えてクリアしたい課題をクリアできるようにすることで
ゆくゆくは自由を獲得し
幸せに生きていくことを考えている。

シュタイナー教育『数の学びのはじめかた』

シュタイナー教員研修講座

 

今日は、「数の学び」を体験しました。

 

正直、今まで何を教えていたんだろう、という感じがします。

 

僕はよく言われる

「なぜ算数を学ぶの?」

という問いに対する答え

「算数は生活に使うから学ぶんだよ」については、

半分納得いっているけど、半分それだけでは無いと感じていた。

算数や数学は美しい世界があって、神秘的な不思議な世界があって、それを純粋に楽しむこと自体も学ぶ意味だなって思っていた。

けど、それをうまく体験させるカリキュラムにまで落とし込めてはいなかった。

 

今日のシュタイナー教員養成講座「数の学び」はその一つの答えになった。

 

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シュタイナーの数の学び

 

まず数に出会うところから。

数って、本来自然界や宇宙と結びついている。

だけど、公立小学校はどうしても「〇〇がいくつあって」「3はこうやって書いて」と機械的に学んでしまう。教科書がそのような導きになっている。

 

でもシュタイナーの数の学びは、自然界と数とのつながりから、数に出会い、数を学んでいく。

 

数に出会う1年生を想像して・・・

「この世界に1つのものってあるかな?」

  月、太陽、私、へそ、etc.

「この世界に2つのものってあるかな?」

  目、耳、ひざ、昼と夜、

「じゃあ3つのものは?」

食事(一日3食)、クローバーの葉、おだんご

4は?

5は?

実は、植物のがくの数、果物の種の配置など、自然界に数の法則はたくさんある。

それを見せてもいい。初めて知ると、とても感動して、心に強く残る。

 

こうやって数に出会ったら、そりゃ「3つのものあった!」って

授業終わった後も

家に帰った後も

子どもたちはワクワクして見つけるでしょうね。

しかも、1日に1つを学ぶからこそ、1つを大事に、しっかり味わえる。

 

世界にあるものの中で

数とのつながりを見つけるから、

世界と数を結び付ける。

数は機械的に理解したり覚えたりするものではなく、

世界や宇宙を知る美しいもの。

 

こんな風に数に出会う子どもたち

きっと数の学びは素敵なものになるんだろうなぁ。

 

 

学ぶということは、

大人が使っていることを使い、できるようになり、社会生活を営めるようになること。

学ぶということは、

世界と出会い、世界を知り、世界とのつながりを感じ、世界と生きていくこと。

学ぶということは、

自分自身が自由に、幸せに生きていくということ。

 

こういうことを問い続ける

本質的な学びが

シュタイナー教育には常に存在している。

 

 

 

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だから、

教科書を使って、

「(絵を見て)パンダが3匹いるね」

 

って、

3を学ぶのは

あまりにもったいなさすぎる。