前回お伝えした通り、R3年度に完成した学校教育目標が、ついにR4年度に施行されました。
大事なのは、これを生かしてくこと。完成してからが重要だと思います。
4月の時点で、生かし方について考えていたことはこんなことです。
続きを読む前回お伝えした通り、R3年度に完成した学校教育目標が、ついにR4年度に施行されました。
大事なのは、これを生かしてくこと。完成してからが重要だと思います。
4月の時点で、生かし方について考えていたことはこんなことです。
続きを読む(今回は難解です。初心者要注意笑 お付き合いいただける方だけよろしくです。長いクセに伝わりにくい。本当に伝えるのが難しい。)
シュタイナー教員養成講座
『自明の権威』たる教育者の存在
9歳の危機
と言われる9歳
◇ちょっと身近な例を交えながら解釈してみる。
今まで、ワタシとお母さん(主に)はほぼ同じ存在で、お母さんが笑えば私もわらう。お母さんと気持ちの共有は当たり前。友だちについては、ワタシが楽しいと思うものはみんなも楽しいと思っていた。ワタシと親(母親)、ワタシと友だちは自分と同じ感覚を持つ生き物と認識していて、世界の法則はワタシの認識できるものでできている、とさえも考えていた。
けど、9歳のこの頃、例えば、自分の生まれる前にも、死んだ後にもこの世界はあることを気づく。世界は自分に無関心に動いている。他者にとって自分は他者で、ついには孤独感を感じてしまう。自我が芽生え、自分自身についてよく考える、ということが始まる。
この不安定な時期に入る子どもたちの教育のキーポイントは?
それはシュタイナーいわく、『自明の権威』たる対象の存在だそう。
この用語、とても、誤解を生む。きっといい日本語がなかったのだろう。
自明の権威とは、自ずと仰ぎ見るような存在。『ああ、この人素敵。すごい。この人についていきたい。』と思えるような、内から出てくる権威的(尊いと感じる)存在をもつことで、子どもに安定をもたらす。この存在として一番に想定されるのは、『学校の先生』である。だから、先生は自明の権威たる存在であることが望ましい。
なんで?
後述。
小学生は、論理や因果関係でものごとを捉えていないから、説明はうまくはいらない。(入ったようには見える)「教えよう」とするのではなく、もっとわかりやすく、感覚に沁み入り、背中を見せて正しい方向に導くのが適切。これが、『自明の権威』が子どもの学びと成長に最も適する理由かな。
12歳までの子どもたちは、物事を因果関係で捉えることが出来ない。子どもたちは、愛情のあるもの、具体的でイメージで分かるもので理解する。だから、まださまざまな事柄のつながり、背景にあるものを想像して物事を捉える事が難しい。わかってるような発言をする子はいるけど、表面的理解なことなことが大半。
→この辺、先生をやってる人は分かると思う。素敵な話し合いをしていても、「あれっ?」と突然違う方向に行ったり流れと違う結論になったりすることは多々ある。
子どもがそういう特徴があるから、教育もそのような特徴をもとに行う。教えることは、イメージの伴うもの。例えば植物を切り離して捉えるのではなく、有機的生命体として土やら周囲の環境と共に捉える。論理的な説明はほとんどいらないし、論理的な先生よりも、愛情にれあふれ、心を動かし、具体的でイメージできるもので学びをうみだせる先生が望まれる。
この時期の子どもたちに、物事を判断させないようにと、シュタイナーはいう。意見文のようなものも、良くないという。それは、因果関係をまだ理解する段階にないからだと思う。
例えば、以前クラスでウクライナ情勢について、安易にロシア批判をしているのを聞いた。子どもたちは、いろんな人たちがいろんな考えで動いてこういう結果になった、と言うことまで思考がいかない。まだまだ、様々なものを結びつけて広くみて、判断することができない。先も述べたが、討論のような事をしても、教師の介入なしに適切な答えを出すことは、『運』のようなもの。変な方向に行ったり、変な結論になることは多々ある。だから、例えば『好きな色を選ぶ』
などの判断はいいけれど、大きなものごとの判断は、子どもにさせるべきではない。
シュタイナーによれば、この時期の子どもに物事を判断させること(特に批判的判断)は、後に子どもに多大なる負の影響があり、自由を獲得することも出来なくなるという。
確かに5年生後半あたりから、子どもたちはよく何かを悪くいう。言うことについては、そうだねーと流せるが、行動にまで移すとなると放っておけないことは多々ある(まさに中学生)。
子育てにおいて、5・6年生以降は、親の言うことはあまり入らなくなることは、これ以降の年の子どもと接した人は分かると思う。
5・6年生から中学生の時代において、子どもたちには指導より、いかに素敵な大人や素敵な先輩、友達に出会えるかが重要。そういう素敵な人たちを行動指針にする子どもの姿を、よく見る。ここも、『自明の権威』と完全に一致する。
ただし、ここの、どこを委ねてどこを、委ねないのか、と言ったバランスは見極めないといけない。判断させないと言っても、全てそんなことしたら、それこそ誤った権威になる。それはもはや権力者の悪政になり、子どもは大人を『自明の権威』として仰ぎ見ることがなくなる。大人は『口うるさい大人』に失墜する。
シュタイナー教育は一言で言うと
子ども>カリキュラム
の要素が、とても強いと感じる。
(他の学校や教育はどうなのでしょう。専門化ではないのですべては知りませんが、シュタイナーはかなり強いと思います)
おそらく、世の中の学校はほとんどが
カリキュラム(何を学ばせるか)ベースでできている。
■どんな力を身に付けさせたいか
■どんな人間が社会で求められているか
これらをベースにしているから、
子どもたちそのものより、カリキュラムが前に出てくる。
そして、かなりの確率で、
子どもが置き去りにされ
カリキュラムが第一に大事にされて
子どもにストレスがかかり、
やっても身にならない学び(そりゃ言い過ぎか?)が連続してどんどん降ってきて
息苦しい教育や学校になることが多々ある。
一方で、シュタイナー教育は
最初のウォルドルフ(シュタイナー)学校ができてから、
100年経ったいまでもずっと
社会の要請ではなく、
人間を人間として、自由に生きていくための教育を行っている。
分かりやすく言えば、「幸せに生きるため」
時代が変化しても、
変わらず大事な
人として根底に必要なもの
そんなものを大切にする教育。
だから、100年前の思想でも
ずっと変わらず受け継がれているんだとわかった。
(僕は「100年変わらないってどうなの?」と疑念をもって学び始めたが、今はすごく納得いっている)
シュタイナーは
人間という存在を
人智学(アントロポゾフィー)の視点から
ひたすら深く捉えている。
その捉え方が難解&現代の合理主義社会と合わず、
とっつきにくく、広まりにくくなっているといえる。
(こうやって書いても伝わらない大きな理由でもある)
でも、シュタイナーの教育学を学ぶと、
本当に「子どもとはどういう生き物か?」が全てのベースになっている。揺るがない根幹、とてつもなくどでかい幹になっている
カリキュラムは確かにあるけど、
カリキュラムはこの「子どもとは?」の答えが完全に一致して作られていて、
教育の捉え方・考え方が、
子ども>カリキュラム
に見える。
そして、子どもや人間の捉え方の奥深さがすさまじい。
社会の要請ではなく、
人間というのはどういう存在で
年齢を基準とした人間の発達的変化に伴い、
そのときに合った学び方で
そのときに必要な力を最大限伸ばし
そのときに人間的発達で考えてクリアしたい課題をクリアできるようにすることで
ゆくゆくは自由を獲得し
幸せに生きていくことを考えている。
シュタイナー教員研修講座
今日は、「数の学び」を体験しました。
正直、今まで何を教えていたんだろう、という感じがします。
僕はよく言われる
「なぜ算数を学ぶの?」
という問いに対する答え
「算数は生活に使うから学ぶんだよ」については、
半分納得いっているけど、半分それだけでは無いと感じていた。
算数や数学は美しい世界があって、神秘的な不思議な世界があって、それを純粋に楽しむこと自体も学ぶ意味だなって思っていた。
けど、それをうまく体験させるカリキュラムにまで落とし込めてはいなかった。
今日のシュタイナー教員養成講座「数の学び」はその一つの答えになった。
*************
シュタイナーの数の学び
まず数に出会うところから。
数って、本来自然界や宇宙と結びついている。
だけど、公立小学校はどうしても「〇〇がいくつあって」「3はこうやって書いて」と機械的に学んでしまう。教科書がそのような導きになっている。
でもシュタイナーの数の学びは、自然界と数とのつながりから、数に出会い、数を学んでいく。
数に出会う1年生を想像して・・・
「この世界に1つのものってあるかな?」
月、太陽、私、へそ、etc.
「この世界に2つのものってあるかな?」
目、耳、ひざ、昼と夜、
「じゃあ3つのものは?」
食事(一日3食)、クローバーの葉、おだんご
4は?
5は?
実は、植物のがくの数、果物の種の配置など、自然界に数の法則はたくさんある。
それを見せてもいい。初めて知ると、とても感動して、心に強く残る。
こうやって数に出会ったら、そりゃ「3つのものあった!」って
授業終わった後も
家に帰った後も
子どもたちはワクワクして見つけるでしょうね。
しかも、1日に1つを学ぶからこそ、1つを大事に、しっかり味わえる。
世界にあるものの中で
数とのつながりを見つけるから、
世界と数を結び付ける。
数は機械的に理解したり覚えたりするものではなく、
世界や宇宙を知る美しいもの。
こんな風に数に出会う子どもたち
きっと数の学びは素敵なものになるんだろうなぁ。
学ぶということは、
大人が使っていることを使い、できるようになり、社会生活を営めるようになること。
学ぶということは、
世界と出会い、世界を知り、世界とのつながりを感じ、世界と生きていくこと。
学ぶということは、
自分自身が自由に、幸せに生きていくということ。
こういうことを問い続ける
本質的な学びが
シュタイナー教育には常に存在している。
************
だから、
教科書を使って、
「(絵を見て)パンダが3匹いるね」
って、
3を学ぶのは
あまりにもったいなさすぎる。